2009-01-01から1年間の記事一覧
哀しい方の人生 全十七回の中編小説です
『 哀しい方の人生 』 愛も哀も、切なく重い。 しかし愛は、その対価でもあるかのように多くの人に勇気を与えてくれる。 哀もまた、その試練を乗り越える道筋を用意してくれているのかもしれない。 ( 1 ) 石川が小林敦子を知ったのは、昭和も終わりに近い…
その一帯は、アパートや文化住宅と呼ばれた長屋形式の賃貸住宅が雑然と集まっていた。 後の時代から見れば狂乱とさえ表現されるバブル経済は、この辺りにまで再開発の波が押し寄せていた。表通りやそれに隣接する辺りは、新しいビルが建設されていたり、地上…
石川は、一瞬心の奥をよぎった疑惑のようなものを振り払うように、敦子に詫びる必要などないことを繰り返し繰り返し訴えた。 石川の熱心な言葉を聞きいれたのかどうか分からなかったが、ようやく立ち上がった敦子は板間の部屋の方へ行った。そして、現金に白…
( 2 ) その夜、石川は妻に小林敦子のことを話した。 名前や仕事に関わる部分は伏せていたが、子供に靴を買ってやれない様子や、何よりも、モナカをもう一つ欲しいと、本当に言いだしにくそうに話す敦子の姿が切なくて、誰かに話さずにはいられなかった。 …
次の日の夕方、業務の終了を待ちかねて石川は敦子のアパートを訪ねた。 昨日に続く訪問に警戒する様子だったが、昨日の件ではないことが分かると気持ちよく中に入れてくれた。 十か月になるという男の子も、食事の後だということで、玩具を振り回して元気に…
石川は、敦子が素直に喜んでくれていることを感じ取ると、次の品物を取りだした。子供用のタオルケットや肌着である。小さな靴下や涎掛けもあった。 子供服は少し大きそうだが、「すぐに着られるようになりますよ」と、セールスマンのような口調で次々と品物…
( 3 ) 小林敦子は両親の顔を知らなかった。 母は敦子が一歳の誕生を迎える直前に亡くなっていた。祖母からは、心臓の病気で急死したと聞かされていた。 父はまだ生存していると思われるが、一度も会ったことがなかった。音信はもちろんのこと、父の名前さ…
祖父の葬儀などは、叔父夫婦がすべてを取り仕切ってくれた。 そして、四十九日の法要が終わり人の出入りが落ち着いた頃、叔父一家が移ってきた。 小林家の長男である叔父は、結婚の時に家を出て近くの借家で一家を構えていたが、いずれ実家に戻ることになっ…
敦子がお手伝いとして勤めることになった家は、近鉄沿線の高級住宅地にあった。 一度連れてこられた時には、その家がどの辺りに位置しているのか分からなかったが、奈良県ではあるが、いわゆる古都としての奈良とは全くイメージの違う、新しく開発された住宅…
敦子は、大阪市内に移りレストランに勤めることになった。 お手伝いを辞めなくてはならなくなった時、会長の知人が経営しているレストランを紹介してくれたのである。幾つかの店舗を展開している大規模なレストランで、そこでウエイトレスとして再出発するこ…
( 4 ) 敦子と小林省一との出会いは、正月休みの偶然からである。 その頃敦子が勤めていた食堂は、現在の住居より少し京都に寄った街にあった。 そこはサラリーマンなどを客層にしていて、昼間は主に食事を出し、夕方からは居酒屋風に変わる、まあいえば、…
にわか雨に追われるようにして公園の休憩所に飛び込んできた小林省一と、ハンバーガーの大きな袋を抱えた敦子、これが二人の出会いだった。 二人は狭い休憩所の両端で、それぞれ違う方向の外を見ていた。雨足は静かになっていたが、すぐに止むような気配では…
( 5 ) 小林省一は、岡山県北部の町で育った。 普通の家庭の、普通の男の子として育ったが、普通の生活を踏み外したのは高校一年の時の万引き事件が発端である。 隣町のスーパーマーケットで万引きを働き、捕まってしまったのである。 普通の家庭で育った…
それは、やはり、正月二日のことである。 省一の勤める会社は十二月三十日から年末年始の休暇に入るのだが、荷主の関係で臨時の仕事があるのが例年のことだった。 この間の出勤には特別の手当てが付くことになっていたが、積極的に希望する者はなく運転手間…
突然の出来事に、敦子は大きくなったお腹をかばいながら走り回ったが、会社の人に頼る以外に方法もなく右往左往するばかりだった。 もともと無口な省一だが、二人で暮らすようになってからは敦子と明るく話すようになっていたのに、事故以後は殆ど口を利かな…
( 6 ) 「事故を起こしたのですから、省一が悪いのは当然です。 今こうして、自分の子供を抱く立場になってみると、遺族の方々の悲しみやわたしたちへの怒りや憎しみは当然だと思います・・・。 でも、省一は、あのお子さんを殺したのではありません。死な…
敦子は石川との会話の中で、自分は運の良い女なのだ、ということも口癖のように言っていた。 石川は最初にこの言葉を聞いた時、敦子が冗談を言っているのか、あるいは自虐的な意味で使っているのではないかと思った。 「哀しい方の人生」を歩いていることと…
目 次 プロローグ 光あれ 第一話 いまひとたびの 第二話 天上天下唯我独尊 第三話 犬も歩けば棒にあたる 第四話 権兵衛が種をまく 第五話 霧立ちのぼる 第六話 露の世 第七話 少欲知足 第八話 達磨さんが転んだ 第九話 天網恢恢粗にして漏らさず 第十話 飯と…
『 光あれ 』 初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵 の面にあり 神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 「光あれ」 こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。 神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。 夕…
『 いまひとたびの 』 私は「いまひとたびの」という言葉を聞きますと、殆んど反射的に「みゆき待たなむ」という言葉を連想してしまうのです。 小倉山 峰のもみぢば 心あらば いまひとたびの みゆき待たなむ これは、小倉百人一首の中にある貞信公の和歌です…
和泉式部は、平安時代を代表する歌人の一人です。 生没年は不詳ですが、西暦九百七十八年前後に誕生したという説が有力のようです。 大まかに言いますと、西暦一千年前後に活躍した人ということになります。 時は一条天皇の御代、藤原氏の最全盛期にあたりま…
『天上天下唯我独尊』 「てんじょうてんげ ゆいがどくそん」と読みます。 この言葉は、お釈迦さまがお生まれになった時、片方の手で天を指し、もう一方の手は地を指して、七歩進んでから四方を顧みて発したという言葉です。 事実か創作されたものかはともか…
『 犬も歩けば棒にあたる 』最近の子供たちは「いろはカルタ」で遊ぶことなどあるのでしょうか。 コンピューターゲームが年々高度化され、大人がとてもついていけないレベルのものを小学生が軽々と挑戦しています。ゲームとしてのスリルや複雑さは「いろはカ…
『権兵衛が種をまく 』 �♪�� ゴンベが 種まきゃ からすが ほじくる・・・ あなたは、このような唄を聞いたことがありませんか。 少し前のことになりますが、私は突然のように、この唄、というよりこの言葉の部分が思い浮かんで、無意識のうちに口ずさんでい…
『 霧立ちのぼる 』 むらさめの つゆもまだひぬ 槇の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮 今回のテーマ「霧立ちのぼる」は、この和歌から引用したものです。 第一話に続き小倉百人一首からの引用ですが、新古今集に登場しているなじみ深い作品です。 作者の寂蓮法師…
『 露の世 』 露の世は 露の世ながら さりながら この句は、小林一茶の作品です。一茶は俳人として極めて著名な存在ですが、あなたは、小林一茶という人物に対してどのようなイメージを持っていますでしょうか。 一茶は類い稀な多作家で、現在に伝えられてい…
『 少欲知足 』 少欲知足・・・このまま読めば「しょうよくちそく」となりますが、これは中国の言葉ですから和文にしますと「しょうよくをもって、たるをしる」といった感じになります。言葉の意味は「小さな欲で満足することを知りなさい」ということです。…
『 達磨さんが転んだ 』 「達磨さんが転んだ」という遊びがあります。ご存知ですか。 大体の遊び方は私も知っていますが、あまり遊んだ記憶はありません。 今回はこの言葉がテーマですが、以前から特別興味があったわけではありません。ところが、最近この言…
『 天網恢恢疎にして漏らさず 』 「てんもうかいかい そにしてもらさず」と読みます。 これは「老子」の中にある言葉です。第七十三章の最後の部分です。 老子は中国の春秋時代から戦国時代にかけての頃に実在したとされる思想家で、その著書も同様に呼ばれ…