「練習は嘘を吐かない」という言葉を、時々耳にすることがあります。
スポーツで好成績を得た選手へのインタビューなどでお目にかかることが多いのですが、良い言葉だな、と思いながらも、同時に、勝者だから言える言葉ではないのかな、と感じる部分もあります。
根性がねじ曲がっているか、勝者の経験が無いためのひがみだと言われてしまいますと、反論しづらいのですが、残念ながら敗者となった選手の多くも、相当の練習を積み重ねてきているはずだと思うのです。
もちろん、練習が勝者となることを約束していたわけでもありませんし、練習に見合っただけの実力向上を果たしている、という考えも成り立つわけですが。
ここ数年掛けて、「今昔物語」を読み続けています。拙い訳文を当ブログで紹介させていただいておりますが、何分膨大な作品ですので、未だ完了の目処も立っていません。
ただ、今昔物語の説話は1200話以上あり、長文の物もありますので、掲載回数としては1500回前後になるのではないかと思っています。それでも、1回分読みますと、1回分確実に減るわけですから、もしかすると、「練習は嘘を吐かない」と言うことを体験しているのかもしれません。
おそらく、スポーツに限らず、大概のものは、練習なり努力なりを続ければ、幾ばくかの成果は積み上がっているのかもしれません。同時に、何らかの理由で成果を下押す力も存在していて、気がつけば、そちらの力の方が上回っていたと言うこともあるのかもしれません。
今昔物語の説話は、いわゆる仏教説話とされる物が中心で、手放しで仏教を礼賛する物が多いのですが、そうした説話を含めて、内容は多岐に渡っています。現代では差別用語や差別的な考えといった物も少なくなく、時には、年令制限が必要ではないかと思われるほど際どい描写も登場してきます。
それはともかく、今昔物語の説話の中心を為している思想は、「因果応報」といったものではないでしょうか。この言葉を説明させていただくのは、辞書にも載っていますからごく簡単なのですが、その真髄を紹介させていただくとなりますと、とても私の手には負えません。
ただ、少々乱暴かもしれませんが、「練習は嘘を吐かない」という考え方は、「因果応報」の一端を表現しているような気もするのです。
私たちが、練習したり、努力したりした結果を考える時、野球で喩えますと、「打点、あるいはホームラン」と「打率」の二面があるように思うのです。
「打点やホームラン」は、一度獲得した成果は積み上がっていきますが、「打率」の場合は常に上下します。
さて、私たちの人生において、この二つの成果の判定の仕方を、どう考えればよいのでしょうか。
きっと、どちらもが大切で、どちらをも大切にすべきなのでしょうが、かつての最高点を引きずり続ける生き方は、一考の必要があるような気がするのです。
( 2023.02.08 )