南北首脳会談が話題を集めています。
攻撃は不可避とまで言われた米国と北朝鮮の関係でしたが、平昌オリンピックを機に流れに大きな変化が起こり、ついに韓国と北朝鮮による首脳会談が実現しました。
その状況の一部はテレビで生放送され、おそらく世界の大半に映像が流されたのではないでしょうか。会談後の「板門店宣言」の内容や、両首脳の振る舞いや会話などを見る限り、普通の関係にある国家同士の交渉のように見えました。
両国による首脳会談は三回目になりますが、過去の二回についても、会談終了後は周辺国に大きな期待を持たせるものでした。しかし、どちらに責任があるのかはともかく、全く何の進展もなく、わが国から見れば、北朝鮮との関係は悪化の一途を辿ってきたように思われます。
今回の会談の成果についても、手放しで歓迎するほどのものではないという意見も少なくないようです。今回の会談は、所詮近日行われるとされている米朝会談の地ならしに過ぎないという人もいるようです。また、わが国にとっては、わが国固有の問題について全く触れられていないことに不満を述べる声もあります。
しかし、冷静に考えてみた場合、拉致問題も、核兵器も、ミサイルも、いずれも重たい課題ですが、「同一民族が和解する」という願いは、第三者では理解しきれないほど大きなものではないでしょうか。
今回の会談が、にこやかな表面とは別に、その裏で権謀術数が渦巻いているとしても、分断された人々にとって、悲願達成への道を、ほんの少しでも開いたとすれば、拍手を送りたいと思うのです。
「悲願」となれば、わが国にも拉致問題と言う重たい課題があります。歴史や国家間の軋轢や、あるいはもっと感情的な面もが複雑に絡み合って、「悲願」といっても、それぞれの立場によってその軽重は微妙に変化するものです。
「悲願」という言葉は、仏教に由来する言葉です。「如来や菩薩がその大慈悲心から発する誓願」と説明されているように、仏が衆生の願いを叶えてやりたいという願いのことだと思うのですが、仏の誓願となれば、そこには欲得や自己都合などといった打算はないはずです、彼の悲願は、誰にとっても悲願であるはずですから、わが国の立場、個人や団体の思惑はともかくも、彼らの悲願は純粋なものだと信じて、実現に少しでも前進してくれることを祈りたいと思うのです。
「悲願」は、何も国家間や民族間だけに存在している性格のものではなく、一個人にも存在しているものです。
「悲願」という言葉を使えば少々重たくなりますが、私たちには、それぞれに「願い」はあるものです。「私たち」という言葉を「私」に限定すれば、数多くの願いがあります。しかも、その願いの多くは自分に関するもので、それも欲得に絡んでいるものがほとんどといっても過言ではありません。それでもその中の一つ二つは、直接的には自分に関わらないものもあります。
自分のためではなく、また特定の誰かの為でもない「願い」、そのようなもののために祈りたいような気持、そういうものを抱くことは切なく苦しいのでしょうが、もしかすると、そういうものの実現に必死になってい瞬間は、人生における充実している時間なのかもしれないような気がします。
分断された民族が抱く「悲願」というものを、私は十分理解することは出来ませんが、今回のことが達成への第一歩であることを祈りたいと思います。
( 2018.04.29 )