本日九月十五日は、たしか『敬老の日』だったですよね。どこへ行ってしまったのでしょうね。
ああ、十九日の月曜日へ移動しているのですか。『敬老の日』というのが、本音のところでいえば、どういう趣旨の記念日なのかは知りませんが、要は、休日を楽しむのに便利な方に日付をずらせる程度の記念日であることは明白なようです。
最近、テレビの旅番組のようなものを見る機会がありました。たまたまつけたところでその番組をやっていたので見てしまったという程度ですので、あまり詳しい背景は承知していません。
番組は、主人公の旅人が東欧の山村を訪ねるというものでした。その村は、その辺りでは長寿村として有名で、元気なお年寄りやその家族の日常を訪ねるというものでした。
どの程度編集されているものかどうかはともかくとして、印象深かったことは、八十歳、あるいは九十歳を超えた人たちが生き生きと生活している姿でした。それも、彼らの生活の中心は仕事でした。ほとんどが農業や酪農という村ですから、働くといっても会社勤めなのではなく、家業の仕事をしているのですが、しっかりと自分の持ち分を確保しているのですね。近隣の人と陽気に話したり、食事をしたりもしているのですが、彼らの日常の中心にあるのは仕事なのです。
もう一つは、大家族が大部分のようなのですが、世代間が微妙なバランスで保たれているように見えました。
もっとも、画面には登場して来ない部分では、寝たきりの老人もいるのでしょうし、深刻な家族内の軋轢もあるのかも分かりません。
ただ、放送された部分だけを見る限りは、長寿社会というのはこうあるべきかと感じさせられる部分がありました。
ひるがえって、わが国の現状を考えてみますと、長寿村などという言葉は、まだ現存しているのでしょうか。
年齢面だけでいえば、その番組で紹介された程度の長寿村など、わが国には数えきれないほどありますが、わが国では、長寿村などとはいわず、高齢化村か限界集落とでも表現されるのではないでしょうか。大家族が珍しくなってしまったわが国では、長寿や敬老などという言葉は、言葉としては残っているとしても、そのような状態を表現する言葉としては、『高齢化』という言葉が主役になってしまったように思われてなりません。
現在日本の社会問題の根底にある難題は、年々深刻さを増す『少子高齢化』という現象にあります。
この問題を明快に解決させる方法を確立させないことには、『敬老の日』なんて、公務員やごく一部のサラリーマンの休日を増やす以上の働きはないように思うのです。
そんな方法があるのなら誰も苦労はしないという声が聞こえてきますが、高齢化に関して世界のトップを走っているわが国こそが、『長寿と表現されるもの』と『高齢化と表現されるもの』との狭間にある、齢を重ねても充実した生活を持続させることが可能な社会を作り出す責務を担っているのではないでしょうか。
( 2011.09.15 )