水俣病の認定に関する裁判の最高裁判断が示されました。
もう、若い人たちの中には、水俣病という不幸な出来事を知らない人も少なくないのではないでしょうか。発展過程がわが国より遅れている他国の環境問題に関しては、まるで聖人君子のごとき立派な意見を述べることが出来る私たちが、発生から五十年以上も経ってもなお今回の裁判を続けていることに恥ずかしいと思う必要はないのでしょうか。
水俣病が、チッソ水俣工場の排水にメチル水銀が含まれていて、汚染された魚介類を食べた人に神経性の中毒を発生させたものであることを、公式に確認されたのが1956年(昭和三十一年)のことです。実際の発生はもっと以前に遡るわけですから、半世紀どころの問題ではないのです。
発生してしまった不幸もさることながら、その治療や補償などに関する境界線の引き方が、あまりにも被害者に冷たいために、今回のような裁判が多発しているわけでしょう。
しかし、同時に、何につけても境界線を引くことは難しいものです。
先日も淡路島を震源とする地震がありましたが、東日本大地震の補償や、原発事故の補償などにおいても、境界線を引くことは極めて難しい作業になることでしょう。
被災者、あるいは被害者に有利に判定すればよいのかといいますと、実はそうでもないのが境界線の難しい所なのです。
例えば、原発事故に関して考えた場合、誰がどのように負担するかは別にして、自ずから保障財源には限度があります。東京電力をつぶそうが、国家財政が傾くほど国家予算から投入するとしても、保障財源に限度があることには変わりがありません。そうすると、被災者などの保障を手厚くすればするほど境界線は狭くなるでしょうし、広げれば広げるほど保障は薄くなってしまいます。
隣家との境界線や日照権でのトラブルはよく耳にしますし、大きくいえば国境や領海に関するトラブルも、境界線を引くことの難しさの代表的なものといえます。
また、法律に関する判断にも境界線があるようです。
ある裁判の判決にあたって、裁判官の判断が有罪無罪が「3対2」に分かれたような場合、どう境界線を引くのが正しいのでしょうか。おそらく多数決になるのでしょうが、法的にはともかく、絶対正義というものがあるとした場合、その境界線の引き方は正しいのでしょうか。
大阪を中心に、議員たちが未熟な法令を好き勝手に操って納税を逃れていることが表面化してきています。おそらく大阪だけのことではないと思うのですが、法律の境界線を自由勝手に収縮する輩を、なんとかからめ捕る境界線を引くことは出来ないのでしょうか。
私たちの日常生活もまた、多くの境界線の中にあるといえます。
わが家のすぐ前に横断歩道があるのですが、その横断歩道さえはみ出て歩いている人が少なくないのですから、他の人が設えた境界線を破ることにはあまり罪の意識はないようです。そのくせ、自分の引いた境界線への侵入には極めて神経質なのが一般的なようです。
まあ、横断歩道なら交通事故さえ起きなければ良いのかもしれませんが、人間関係の微妙な境界線は、犯す場合も犯された場合も、分別なり良識なりの弾力性が必要な気がするのです。
( 2013.04.19 )