2024-03-13から1日間の記事一覧
『 望月の宴 』 ご案内 平安時代とは、諸説はありますが、都が平安京に移された西暦 794年(延暦13年)から1183年(寿永二年 ・源頼朝が東国支配権の承認を得た年で、諸説の中で平安時代の終りが最も早い説。)までの、およそ390年間を指します…
『 仲秋観月の宴 ・ 望月の宴 ( 1 ) 』 時は康保三年( 966 )、村上天皇の御代でございます。いつしか年月も過ぎて、帝が世を治められてから二十年になったので、「帝の位から退きたいものだ。しばらくの間は、気ままに過ごしたい」と思いをもらされたが、時…
『 村上帝崩御 ・ 望月の宴 ( 2 ) 』世始りて後、この国の帝六十余代にならせたまひにけれど、この次第書きつくすべきにあらず、こちよりてのことをぞしるすべき。 「栄花物語」は、この文章から始まっています。「神々の世ではない人の世が始まってからこれ…
『 守平親王立太子 ・ 望月の宴( 3 ) 』 村上帝御崩御の後のことは、まことに悲しいことばかりでございます。御葬送の夜は、葬儀官の除目があり、これまでの役職を解かれて、葬儀のあの役この役と分担されることになりました。いつもの司召(ツカサメシ・除目)に…
『 冷泉天皇と物の怪 ・ 望月の宴 ( 4 ) 』 冷泉帝は、正常の御心地でいらっしゃる時は、先帝(村上天皇)に大変よく似ておられた。御容貌は、この帝の方が少々優っておられた。ただ、お気の毒な事に、この帝には物の怪がひどいことが、たいそう情けないこと…
『 不運なり 源氏の大臣 ・ 望月の宴 ( 5 ) 』源氏の大臣(ゲンジのオトド・源高明)は、式部卿宮(為平親王・高明の娘婿)が東宮にお立ちになれなかったことを、大変ご不満に思われていたに違いない。宮に対して帝がたいそう御寵愛なさっておられたことを、世…
『 安和の変 ・ 望月の宴 ( 6 ) 』冷泉帝は、御物の怪に苦しめられることが並々ではございませんでした。そのため、しかるべき殿上人や殿方が、夜昼怠りなく伺候しておられました。それは、まことに空恐ろしいお勤めでございましたので、「今日は御譲位なさ…
『 世代交代 ・ 望月の宴 ( 7 ) 』安和の変は、世間の人にもやもやとしたものを抱かせながらも、源氏の左大臣高明殿が大宰権帥に左遷という悲しい結末となり、ほどなく、出家なさったとのうわさが伝わって参りました。そして、この事件は、藤原氏による摂関…
『 九条家一族の台頭 ・ 望月の宴 ( 8 ) 』このような事(次々と公卿たちが亡くなったこと)があったが、五月二十日(天禄元年、970)、一条の右大臣(伊尹)が摂政の宣旨を受けられて、一天下はご自分の思いのままであられる。東宮(師貞親王)の御祖父であ…
『 哀れなり永平親王 ・ 望月の宴 』 摂関家や公卿方が激しく変わる中、かの村上の先帝の皇子の八の宮(永平親王)、このお方は宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・芳子)の御腹の親王であられるが、まことに見事な器量の持ち主でありながら、どうしたことか、ご気…
『 兼通の天下へ・ 望月の宴 ( 10 ) 』さて、政権の頂点にお立ちになった一条の摂政殿(藤原伊尹 コレマサ )でございますが、ご体調が勝れず、水だけをお飲みになっておられましたが、御年もまだ若くていらっしゃいますし、摂政になられて三年になっており、ご…
『 兼通 兼家兄弟の争い ・ 望月の宴 ( 11 ) 』さて、九条殿(藤原師輔)が、藤原氏一族の中で抜きん出た存在となりました。薨去なさいました後は、ご長男の伊尹(コレマサ)殿が摂政となられましたが、四十九歳にて世を去ってしまいました。その後には、次の弟…
『 兼家窮地に ・ 望月の宴 ( 12 ) 』 いつの間にか改元されて貞元元年 ( 976 ) となりました。兼家殿のご息女である冷泉院の女御 ( 超子 ) は、昨年の夏以来ふつうのお体ではございませんでしたが、ご出産は二月か三月ということで、安産のお祈りなどを盛大…
『 兼家の復権 ・ 望月の宴 ( 13 ) 』こうしているうちに、堀河殿 ( 兼通 ) のご病状は一段と重くなり、もう回復の望みはないと世間では取り沙汰された。先ごろ参内なさって、東三条の大将 ( 兼家 ) を失脚させなさった。そして今一度、内裏に参上されて様々…
『 望月の宴 ( 14 ) 』こうしているうちに天元二年 ( 979 ) となった。梅壺の女御(詮子)はたいそうご寵愛を受けている。中宮(媓子)は、この数か月どういうわけかご気分が勝れず、中宮職をあげて、また朝廷からも平癒のご祈祷がさまざまに盛大に行われた…
『 懐仁親王誕生 ・ 望月の宴 ( 15 ) 』 帝(円融天皇)も位にお就きになって長年になられたので、今は譲位なさりたいとお思いであるが、どうにもこうにも御子がいらっしゃらないことをたいそう苦になさっていたところ、男女いずれかは分からないが、梅壺の…
『 円融帝と兼家に隙間風 ・ 望月の宴 ( 16 ) 』梅壺の女御(兼家の娘詮子)が皇子を儲けられ、里邸にいらっしゃいました。そのこともありまして、関白殿(頼忠)の女御(遵子)が帝のお側についておられましたが、ご懐妊の気配はございませんでした。大臣は…
『 突然の逝去 ・ 望月の宴 ( 17 ) 』帝(円融天皇)は太政大臣(オオキオトド・頼忠)のお気持ちを大切に思われて、「この女御(遵子・頼忠の娘)を后にお据えしよう」と仰せになられたが、太政大臣は何となく遠慮なされて、一の皇子(懐仁親王)がお生まれにな…
『 若宮の袴着 ・ 望月の宴 ( 18 ) 』こうして時は過ぎて、天元五年 ( 982 ・年代わりが重複している。 ) となった。三月十一日に中宮(遵子)がお立ちになるということで、太政大臣(頼忠。遵子の父。)は準備に懸命でいらっしゃる。これにつけても右大臣(…
『 円融帝の譲位 ・ 望月の宴 ( 19 ) 』右大臣(ミギノオトド・藤原兼家)は、冷泉院の今は亡き女御(超子・兼家の娘)の御法事(少し早いが、一周忌か?)を今月に予定されていて、それに御袴着の儀式をお済ませになられたので、今はこの二十余日に、その法要を…
『 花山帝即位 ・望月の宴 ( 20 ) 』今上の帝は、御年なども大人になっておられて、ご気性もたいそう色好みでおわしまして、早速に、しかるべき方々の御娘たちをご所望の旨を仰せになられる。(花山 ( カザン ) 天皇は、このとき十七歳。)太政大臣(オオキオトド・…
『 多情の帝 ・ 望月の宴 ( 21 ) 』かくて女御(朝光の娘・姫子)が入内なさると、帝は、はた目に見苦しいほどにご寵愛なさった。それまで時めいていた宮の女御(式部卿宮為平親王の娘・婉子)は、御寝所のご奉仕もこの頃は押しのけられていらっしゃる。宮の…
『 哀れ 一条殿の女御 ・ 望月の宴 ( 22 ) 』一条の大納言は、母に先立たれた姫君を、ご自身の御懐で大切にお育て申されたので、万事用心深く世間に振る舞われ遠慮がちにされていたが、今の帝の御叔父にあたる義懐(ヨシチカ)の中納言は、この一条の大納言の長…
『 花山帝の出家 ・ 望月の宴 ( 23 ) 』それにいたしましても、一条殿の女御(忯子)のご逝去は、あまりにも哀れでお気の毒でございました。そうとは申しましても、一条殿(大納言為光)は悲しんでばかりいるわけにも参りません。しきたり通りの葬送の儀式を…
『 一条天皇即位 ・ 望月の宴 ( 24 ) 』花山天皇の突然の御出家で宮中は大騒ぎとなりました。御寵愛の女御(忯子)を亡くし、世の無常を悟ったための御出家でございましょうが、世間では、東三条の大臣(兼家)の暗躍があったなどと、まことしやかに囁かれて…
『 兼家の御子たち ・ 望月の宴 ( 25 ) 』さて、東宮(居貞親王・冷泉天皇の皇子)は今年十一歳におなりになられたので、この十月に御元服の儀が予定されていたが、これは大殿(兼家)の御女(綏子)で対の御方(藤原国章の娘)を母君とする方を、尚侍(ナイシノ…
『 兼家の天下へ ・ 望月の宴 ( 26 ) 』大殿(藤原兼家)は、院の女御(冷泉院の女御超子。兼家の娘、四年前に急死。)のお生みになった皇子たち三人を、みな御懐に入れて養育なさっていたが、二の宮(居貞親王)は東宮にお立ちになられたので、今は三の宮(…
『 道長の結婚 ・ 望月の宴 ( 27 ) 』こうして日が過ぎていって、十二月の初めの頃に、東宮(居貞親王)の御元服の儀があって、その夜、尚侍(ナイシノカミ・内侍司の長官。兼家の娘綏子のこと。)が参上なさって、麗景殿(レイケイデン・後宮六殿の一つ)にお住まいに…
『 道長 左京大夫に ・ 望月の宴 ( 28 ) 』道長殿に取りまして、左大臣源雅信殿の姫君倫子さまとのご結婚は、道長殿の御運を大きく開かれたと思われるのでございます。倫子さまのもとに、せっせとお通いになられるようになってほどなく、左京大夫(サキョウノダイフ…
『 北の方の懐妊 ・ 望月の宴 ( 29 ) 』道長殿の正室倫子さまの御父である土御門の源氏の左大臣雅信殿は、このところ頭を痛めておいでのようでございます。 と申しますのは、少将でいらっしゃった男君(時方か?)が、最近また出家なさったのです。雅信殿は…