いま、私の小さな小さな菜園には、見事にダイコンの花が咲いています。
二十日大根など短根系の物は何度か植えたことがあるのですが、長くなる物は初めてなのです。種の袋に書かれている説明によりますと、青首ダイコンなどに比べると細く、その代わりかなり長くなるとのことなので、種を播く畝だけを一生懸命耕して、小石を取り除き万全の態勢を取ったのですが、何が気に入らないのか、なかなか細くて長い大根には育ってくれません。
曲がっていたり、二股どころか三股も四股も登場する状態です。それでも、たわしで洗ってやると白い光沢が美しく、味もなかなかのものなのですが、容姿端麗といかないため、すべての物をわが家で食べなければならないという難題を抱えてしまいました。
その三十本程のダイコンのうち、一本だけが突然ニョキニョキと茎をのばし、1メートル以上にもなり、白い可愛い花をたくさん付けてくれているのです。他の物は、どれも未だに茎を伸ばす気配がないものですから、何だか不思議な感じです。
しかし、考えてみますと、ダイコンの出来の良し悪しを根の状態で決めるは人間の勝手のように思われます。ダイコンにしてみれば、花を咲かせ実を付けて、命を次の世代に伝えることこそ重要なのであって、根を太らせるのは、立派な種を実らせるための手段にすぎないのではないでしょうか。
つまり、花を付けたこのダイコンは、女王蜂にあたるような女王ダイコンなのかもしれません。
同じような例は他にもたくさんあるように思われます。
例えば、セミなどもそうだと思われます。セミは羽化してからの寿命が短いため、よく儚いものの例えにされることがあります。私も当ブログで「うつせみ」という小説を書かせていただいていますが、やはり、儚さを表現しようとしたものです。
しかし、ご存知のようにセミは地中で長い時間を過ごします。日本のセミは数年ですが、海外の物では十年二十年という物もいるのです。
つまり、ダイコンにとっては、花を付ける姿こそ本当の姿であり、セミにとっては、地中にある時こそが本当の姿のように思われるのです。
そして、もしかすると、人間とても同じなのかもしれません。
この世に生を受けて、あっという間に逝ってしまう命があります。八十年九十年、あるいは百年を超える命もありますが、いずれも等しく死に至ります。神様という存在があるとすれば、なぜこのような不公平を容認したのでしょうか。
しかし、神様からすれば、この世の命の長短など、公平不公平とわめく程のことではないのかも知れません。その後にこそ、あるいは、その前にこそ人間の本当の姿があるのかもしれません。
まあ、こんなことを考えてしまうこともあるのですが、何が本当なのかよく分かりません。
ただ、はっきりしていることは、苦境に立った時、人間は本当の姿が現れるものです。無事泰平な時には、大概の人物はリーダーにもなれますし、教育者にもなれます。交友関係も同じでしょう。ただ苦境の時には、本当の姿が現れてしまいます。誰もがリーダーになれるわけでもなく、親友でもないことが分かるはずです。
本当の姿を自ら悟るのは難しいようですが、せめて、お互いに、あまり背伸びをしないで、地に足を付けて過ごしたいものですね。
( 2011.05.06 )