雅工房 『 日々これ好日 』

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弘法大師 (2) ・ 今昔物語 ( 巻11-9 )

          弘法大師 (2) ・ 今昔物語 ( 巻11-9 )

     ( (1)より続く )

さて、空海がついに廻り会った恵果和尚(ケイカカショウ)は、空海を見ると、笑みをたたえ喜びの表情で、「私はそなたが来るはずだとかねてから知っていたが、ずいぶん待ち遠しかった。今日やっと会うことが出来た。まことに幸いなことである。私には、法を授けるべき弟子がいない。そなたにすべて伝えよう」と言った。
そして、直ちに香花(コウゲ)を備えて、まず灌頂(カンジョウ・秘法を伝授する時に師が弟子の頭に水を灌ぐ儀式)の儀式を行う壇に入った。その後、入学灌頂(最初の灌頂)を行い、両部(胎蔵界金剛界)の大曼荼羅(マンダラ・円形または方形の中に諸仏を絵図にしたもの)に向かって花を投げると、みな中尊仏である大日如来に着いた。和尚(カショウ)はこれを見て、ほめたたえ喜ばれること限りがなかった。その後、伝法阿闍梨の灌頂(秘法を伝授された阿闍梨と定められた儀式)の位を受けた。

そして、五百人の僧を招いて、斉会(サイエ・僧たちに食事を供する法会)を行った。青竜寺と大興寺の二つの寺の多数の僧がこの斉会に臨席し、空海をほめたたえた。
その後、恵果和尚が日本の空海和尚に密教を伝えること、瓶の水を移すかのようであった。
また、多くの絵師、経師、鋳師(イモジ・鋳物師)たちを呼び寄せ、曼荼羅{この後、破損による欠字。曼荼羅に関する諸道具か?}を伝授し、「私はそなたに法を授け終わった。今は、{破損による欠字。早く故国に帰ることを勧めている?}天下に法を広め、衆生の福を増すようにせよ」と諭された。

その当時、恵果和尚の弟子に供奉十禅師(グブジュウゼンジ・諸国から選ばれた十人の僧で、宮中に供奉した)の順暁(ジュンギョウ)という人物がいた。また、玉堂寺の珍賀という僧がいたが、その僧が順暁を訪れて言った。「あの日本の僧侶、たとえ尊い聖人だといっても、我ら一門の者ではない。だから、いろいろな教えを学ばせることはともかく、何ゆえ和尚は秘密の教えを授けられるのか」と。
そして、再三にわたって文句を付けた。すると、珍賀の夢の中に一人の人が現れて告げた。「日本のあの僧侶は、第三地(菩薩修業の段階の一つ)の菩薩である。内には大乗(ダイジョウ・衆生を迷いの此岸から解脱の彼岸に連れて行くもの)の心をそなえており、外面では小国の僧侶の姿をしているのだ」と言って、自分の振る舞いを厳しく咎めるものであった。そこで、翌朝空海のもとに行き、自分の過ちを詫びた。

また、宮城の中に三間の壁があり書(ショ)が書かれていた。それが破損していたが、誰も筆を取って書き直す者がいなかった。
天皇は詔を下して日本の空海和尚に書かせた。和尚は筆を取り、五か所に五行を同時にお書きになった。一本を口にくわえ、二本を二つの手に取り、二本を二つの足に挟んだのである。
天皇はこれを見て、感嘆なされた。但し、もう一間の壁には、和尚が墨をすって壁の表面にそそぎかけると、自然に一間いっぱいに広がる『樹』の文字になった。天皇は頭を下げて感服され、五筆和尚と名付けて菩提子の念珠をお与えになった。

また、空海が宮城の中を見て廻っているとき、ある川のほとりに来られると、そこに破れた着物を着た一人の童子が現れた。頭は蓬のようにぼうぼうであった。
その童子が和尚に尋ねた。「お前さんが、日本の五筆和尚か」と。「そうだ」と答えると、童子は「それなら、この川の水の上に文字を書いてみよ」と言う。和尚は、童子の言うのに従って、水の上に清水(キヨミズ)を讃える詩を書いた。その文字は、一点も崩れることなく流れ下って行った。童子はこれを見て、笑みをたたえて感歎の様子を示した。
童子は、「今度は私が書こう。和尚、これを見てみよ」と言って、水の上に『龍』という文字を書いた。ただ、右側にある一つの小さな点を付けていない。そして、その文字は浮かんで漂い流れて行かなかった。そこで、小さい点を付けると、その文字は響きを発し光を放って、その文字は竜王の姿に変わって、空に上って行った。
この童子は、文殊菩薩であられたのである。破れた着物は、瓔珞(ヨウラク・宝玉で作られた装身具。ここでは着物全体を指す)であった。そして、文殊菩薩の姿はたちまち消えてしまった。

また、空海和尚が故国に帰る日、高い岸に立って誓いを立てられた。「私が伝授され学んできた秘密の教えが、世に広まり受け入れられて、弥勒菩薩がこの世に出現なさるまで、その教えが保たれる土地があるだろう。その場所に落ちよ」と言って、三鈷(サンコ・密教の法具の一つ)を日本の方角に向かって投げると、遥かに飛んで雲の中に入っていった。(三鈷が落ちた所が高野山とされている)

その後、大同二年(807・大同元年とも)という年の十月二十二日に無事に帰朝した。
まず鎮西(九州)において、大宰府の大監(ダイゲン・三等官)である高階遠成という人に託して、唐から持ち帰った法文の目録を(破損による欠字。「朝廷に送り、勅を得て京に上る」といった内容らしい。)
そして、国内に広めよとの宣旨が下された。さらに重ねて、「大師の神筆唐において(破損による欠字部分の推定)の実績は並ぶものがない。速やかに大内裏の南面の諸門の額を書くように」との勅命があった。そこで、外門の額をすべて書き上げた。
また、応天門の額を打ち付けてから見ると、「応(應)」の字の最初の点が無くなっていた。驚いて、下から筆を投げて点を付けた。人々は、それを見て手を叩いて感歎した。

その後、念願通り、朝廷に願い出て真言宗を開き、世に広めた。
すると、諸宗の多くの学者たちが即身成仏の教義に疑問を持ち、論争を挑んだ。そこで大師は、その疑問を断つために、清涼殿において、南に向かい、大日如来の定印を結び深く念じると、顔の色が黄金のようになり、身体からは黄金の光を放った。すべての人は、これを見て頭を低く垂れて礼拝した。
このような霊験が数知れないほどあった。

大師は、真言の教えを盛んに広め行き、嵯峨天皇の護持僧(ゴジソウ・天皇の身体守護の加持祈祷を行う僧)となり、僧都の位に上られた。わが国に、真言の教えが広まったのはこの時からである。
その後、この僧都の流れを汲む者が諸所にあって、真言の教えは今も盛んに広がっている、
となむ語り伝へたるとや。

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