雅工房 『 日々これ好日 』

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達磨大師 ・ 今昔物語 ( 6 - 3 )

          達磨大師 ・ 今昔物語 ( 6 - 3 )


今は昔、
南天竺に達磨和尚(ダルマワジョウ・中国禅宗の始祖。いわゆる達磨大師。)という聖人がおいでになられた。
その弟子に、仏陀耶舎(ブツダヤシャ)という比丘(ビク・僧)がいた。達磨は仏陀耶舎に仰せられた。「お前は、速やかに震旦国に行って仏法を広めなさい」と。
耶舎は師の教えに従って、船に乗って震旦に渡った。
仏法を伝えようとしたが、この国にはすでに様々な比丘が数千人いて、それぞれに修行していた。この耶舎が説くところの法を聞いて、一人として信じる者がいなかった。遂には、耶舎は追放され廬山(ロザン・仏教と縁の深い名山。)の東林寺という所に追いやられた。

ところで、その廬山に遠大師(オンダイシ・417年没。)という優れた聖人がいた。その人がこの耶舎がやって来たのを見て、招き入れて訊ねた。「お前は西国(天竺を指す)よりやって来た。いかなる仏法を以って、この地に広めようとして追い払われたのか」と。
すると耶舎は、言葉では答えず、自分の手を握りそして開いた。その後「この事、お分かりか否や」と言った。
遠大師は即座に、「手を握るのは煩悩である。開くのは菩提(ボダイ・悟りの境地)である」ことを悟って、「煩悩と菩提は一つのものである」ということを知った。
その後、耶舎はその所で亡くなった。
その時、達磨大師は遥か離れた天竺において、弟子の耶舎が震旦の地で亡くなったことを暗に察知して、自ら船に乗って震旦に渡った。梁(リョウ・502-557間の短い王朝。)の武帝(ブテイ・梁の皇帝で48年間在位。武帝の名は幾つもの王朝に登場する。)の御代である。

その頃、武帝は、大きな伽藍(ガラン・寺院の建物)を建立して、数体の仏像を鋳造し、塔を建て数部の経巻を書写して、心のうちで「我は格別の功徳(クドク・善行を積むことで備わる徳。)を修めている。この事を知恵(仏教的な意味で、真理を明らかにして悟りを開く働き。)ある僧に会って褒められ尊敬されたい」と思っていた。
そして、「この国において最近、知恵賢く尊い聖人は誰かいないか」と尋ねられると、ある人が「最近、天竺よりやって来た聖人がおります。名を達磨と言います。知恵賢く、大変優れた聖人であります」と申し上げた。
武帝はこれを聞いて、心の内で喜んで「その人を招いて、伽藍・経典などの有様を見せて感心させよう。また、尊い功徳の由縁を聞いて、ますます格別の善根を修めようと思うだろう」と思われて、達磨和尚を招くために使者を行かせた。
和尚はすぐに招きに従って参上した。その伽藍に迎え入れて、堂塔・経典などを見せて、武帝は達磨に向かって尋ねられた。「我は、堂塔を造り、人を済度(救済)し、経巻を書写し、仏像を鋳造しました。どのような功徳があるのでしょうか」と。
達磨大師はお答えになった。「それらは、功徳ではありません」と。

その時に武帝は、「和尚は、この伽藍の有様を見てきっと褒め称えて尊ぶだろう」と思っていたところ、まことにそっけなく、このように和尚が言うのは、とても納得できないと思われて、さらに、訊ねられた。「それでは、どういう理由で功徳でないというのか」と。
達磨大師は「このような塔寺を造って、『自分は格別の善根を修した』と思うのは、これは有為(ウイ・無為の対語で、因縁による現象。)の事です。まことの功徳ではありません。まことの功徳というのは、自分の心の中に仏となるべき清浄な種子が存在していてこそ、まことの功徳となるものです。それに比べますと、これらは功徳の数のうちにも入りません」と答えられると、武帝はそれをお聞きになると、思ってもいなかった言葉なので、「こ奴は何たる事を言うのか。『自分は誰にも劣らぬ功徳を積んだ』と思っているのに、このように謗るのは、何か意趣でもあるに違いない」と機嫌を悪くして、大師を追放してしまった。

大師は、追放されると、錫杖(シャクジョウ・修行用の鉄の杖で、先端の輪型に鈴が付いている。)を杖にして、[ 欠字あり。「崇」らしい。]山という所に至った。
その所で、会可禅師(エカゼンジ・慧可とも。593年没。禅宗の第二祖。)という人に出会った。大師はこの人に仏法をすべて伝授なされた。
その後、達磨大師はこの地において亡くなられた。そこで、弟子の僧たちは、達磨大師を棺に入れて墓に持って行って置いた。

その後、二七日(ニナノカ・十四日目の事。)を経て、公の御使いとして宗雲(ソウウン・敦煌の人。達磨とほぼ同時代の人ではあるが、出会う話は時代が合わないらしい。)という人が旅に出たが、ソウレイ(パミール高原のこと。中国と西域との要衝。)の上において一人の胡僧(ゴソウ・中国から見て異国の僧。)と出会った。片足には草鞋(ソウカイ・わらじ)を着けていて、もう片方は裸足であった。
その胡僧は、宗雲に語った。「そなたは知っているか。国王は今日お亡くなりになられた」と。宗雲はそれを聞いて、紙を取り出してその日月を記録した。

宗雲は数か月して王城(梁の都の健康を指す。)に帰ってから聞いてみると、「帝はすでに崩御なさいました」と言う。そこで、記録していた日月と比べると全く違わなかった。
「あのソウレイの上において、この事を告げた胡僧は一体誰だったのか」と思いめぐらせて、「達磨和尚だったのだ」と思い至り、朝廷の百官ならびに達磨門徒の僧たちと共に実否を確かめるために、あの達磨大師の墓に行って棺を開いてみると、達磨の身体は見当たらず、ただ棺の中に草鞋の片足のみが残されていた。これを見て、「ソウレイの上で会った胡僧は、きっと達磨が草鞋を片足だけに着けて、天竺にお帰りになられたのだ。片足を棄て置いたのは、震旦の人にその事を知らせるためだったのだ」と全員が知った。

そこで、国を挙げて、達磨大師がやんごとなき聖人であったことを知って、尊ぶこと限りなかった。この達磨和尚は南天竺の大婆羅門国の国王の第三皇子である、
となむ語り伝へたるとや。

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* 達磨和尚の「和尚」は、本稿では「ワジョウ」と読むようです。
「和尚」という尊称は、幾つかの読み方がありますが、一般的には、禅宗では「オショウ」、天台宗では「カショウ」、律宗真言宗真宗などでは「ワジョウ」とされているようです。

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