雅工房 『 日々これ好日 』

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たまぼこの

     玉ぼこの 道ははるかに あらねども
               うたて雲居に まどふころかな

             作者  朱雀院御歌

( No.1248  巻十四 恋歌四 )
         たまぼこの みちははるかに あらねども
                  うたてくもいに まどふころかな

* 作者は、第六十一代天皇。( 923 - 952 ) 行年三十歳。

* 歌意は、「 道は遙かに隔たっているわけではないが、ひどく雲のある空のような 宮中で恋い迷っています 」といったものであろう。この歌の前書き(詞書)には、「女御の下(シモ・下の局)に侍りけるに遣はしける」とあるので、自分の妻である女御に贈ったものであるので、恋歌に入っているが、少し趣が違う気がする。
なお、「玉ぼこ」は「道」にかかる枕詞である。

* 第六十一代朱雀天皇は、いわゆる幼帝と評される天皇の一人であろう。
朱雀天皇となる寛明 ( ユタアキラ ) 親王は、醍醐天皇の第十一皇子として誕生した。
醍醐天皇には二十人にも及ぶ女御や更衣などがおり、皇子皇女は三十六人いたとされる。寛明親王の生母が中宮であることを考慮しても、寛明親王皇位に就いたのには、特殊な状況があったからである。

* 寛明親王は、926年に五歳にして東宮となった。この背景には、皇太子であった兄の保明親王 ( 903 - 923 ) が若くして亡くなり、その子である慶頼王 ( 921 - 925 ) が皇太子となったが二年経たずして夭折したため、中宮出生の寛明親王立太子することになったのである。
二代続いた皇太子の夭折に中宮穏子は怨霊を恐れ、寛明親王を幾重にも張られた几帳の中で育てるなど、過保護すぎるようにして養育したようである。寛明親王自身も蒲柳の質であったようだ。

* 930 年、醍醐天皇の危篤をうけて、9 月 22 日に践祚醍醐天皇は七日後に崩御した。
そして、11 月 22 日に八歳にして即位した。満年齢でいえば、七歳三ヶ月に当たるときであり、当然ながら政務などを担えるわけもなく、叔父の忠平が摂政・関白として政務を取り仕切った。
寛明親王は即位 ( 朱雀天皇 ) 後も、病弱であったらしい。この時代、正妃 ( 中宮 ) のほか、女御・更衣など数人以上の入内を受け入れるのが慣例であったが、女御は二人だけで、皇子女にも恵まれなかった。

* こうしたこともあってか、944 年に三歳年少の同母弟の成明親王 ( 村上天皇 ) に譲位して、二十四歳にして太上天皇となった。天皇在位期間は十五年余と決して短くはないが、おそらく、政治的な活動はほとんどなかったと推定される。譲位後、思うことがあったのか復位を祈ったともされるが、叶えられるはずもなく、952 年に出家して仁和寺に入ったが、程なく崩御した。行年三十歳であった。

* 歴史の流れを俯瞰すれば、朱雀天皇の御代には、関東で平将門の乱、瀬戸内では藤原純友の乱があり、富士山の噴火など大きな自然災害も発生した波乱多い時代に見える。
しかし、これらの事象に対して天皇自ら関わることはまず無かったと推定されるが、それが朱雀天皇にとってどうであったのかと、考えてしまう。
ただ、在位中に実現できなかったが、退位後に一女をもうけることができ、この内親王 ( 950 - 1000 ・昌子内親王
) は、冷泉天皇に入内し中宮になっている。
この時代、幼帝とされる人も何人か登場しているが、朱雀天皇の生涯も、どこか切なさが漂っているように思われてならない。

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