雅工房 『 日々これ好日 』

関連ブログ 「雅工房『作品集』https://miyabikohboh.hateblo.jp/」 「雅工房『小さな小さな物語』https://miyabikohboh.hatenablog.com/」 

いと悲しきは

     数ならば かからましやは 世の中に
             いと悲しきは しづのをだまき

              作者  参議篁

( NO.1425  巻第十五 恋歌五 )
        かずならば かからましやは よのなかに
                 いとかなしきは しづのをだまき


☆ 作者は、小野篁(オノノタカムラ)のこと。平安時代初期の貴族。( 802 -  852 ) 行年五十一歳。

☆ 歌意は、「 私が 人の数に入るような男であれば このようなことはあるまい 世の中で 大変悲しいことは 身分の低い男であることだ 」といった、小野篁らしい皮肉を感じさせる和歌である。この和歌の前書き(詞書)には、「忍びて語らひける女の親、聞きていさめ侍りければ」とある。忍んで逢っていた女の親に、苦情を言われたので返答したものらしく、「恋歌」に入っているが、むしろ可笑しさを感じる。なお、「しづのをだまき」であるが、「しづ」は倭文のことで、古代織物の一種。「をだまき」は、糸を中が空洞になるような丸く巻き付けたもの。ただし、和歌などでは、「いやし」「繰ること」などの序詞と使われることが多い。また、「いと」は糸と掛けられており、「しづのをだまき」の縁語となっている。さらに、「しづ」は「賤」に掛けられていて、「賤しい・身分が低い」ことを表現している。
ややふざけた和歌とも取れるが、多くの技法が込められている和歌でもある。

☆ 小野氏は、神話時代にまで遡ることが出来る名門一族である。信頼に足る歴史上の人物としては、小野妹子は篁の祖先にあたり、小野小町小野道風は孫にあたる。しかし、小野氏の全盛期はこの頃までで、藤原氏の勢威に上級貴族としての地位は沈んでいくことになる。

☆ 篁の父・小野岑守文人として高い評価を受けていた。岑守が陸奧守に任じられたとき、篁も同国に赴いていて、弓馬を好み武者の道に進もうとしていたようである。一説によれば、身長が高く偉丈夫であったという。
やがて帰京するが、嵯峨天皇から父の文才に対して武者を志していることを非難されたことから、一念発起して、822 年に文章生の試験に合格している。当時は、武者が文官に比べて低く見られていたことが分かる。
その後、皇太子・恒貞親王(のちに承和の変廃太子となる。)の東宮学士に任ぜられる。

☆ 834 年、遣唐副使に任ぜられ、従五位上正五位下と急速に昇進した。しかし、836 年、837 年と、二回続けて渡唐に失敗し、838 年の三回目には大事が発生してしまった。
遣唐大使の藤原常嗣が乗る第一船が損傷したため、篁が乗る予定の第二船に乗船することになり、その変更に不満を示した篁は乗船を拒否してしまったのである。一行は篁を除外して渡唐していった。
その後、さらに篁は、遣唐使制度や朝廷を風刺するような漢詩を作ったことから、嵯峨上皇の怒りを買って、官位剥奪のうえ隠岐国に配流されてしまった。828 年 12 月のことである。

☆ 赦免されたのは 840 年 2 月のことで、6 月頃に帰京している。
帰京を果たした後、篁の人格・文才は高く評価されたようで、841 年には本位(正五位下)に復帰が許され、842 年には、承和の変廃太子を伴う政変。藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされる。)により道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子に就くと、その東宮学士に任ぜられた。
これにより、篁は日の目を見ることになり、847 年には参議に任ぜられて、遂に公卿に列したのである。四十六歳の頃のことである。
しかし、その後は、病のため官職を辞すことになったようである。

☆ 850 年に文徳天皇が即位すると、正四位下に叙され、852 年には左大弁(太政官の最高位)に復帰するが、再び病となり参朝さえ困難になってしまった。それでも天皇は大変な信頼を寄せていたようで、何かと支援を続け、在宅のままで従三位に叙されたが、程なく世を去ってしまった。

☆ 以上が作者 小野篁の略歴であるが、実は、筆者が大好きな歴史上の人物の一人である篁の真骨頂は、人間界と冥界を股にかけたスケールの大きな数々の伝説にあると言える。少し長くなるが、その幾つかを紹介させていただきたい。
『 篁は、昼間は朝廷に仕え、夜は冥府において閻魔大王の下で裁判の補佐をしていたと言う。』
『 冥府との往還には、井戸を使っていた。京都東山の六道珍皇寺と京都嵯峨の福正寺にその井戸が有ったと言う。』
『 京都北区にある篁のものとされる墓の隣には、紫式部のものとされる墓があるが、これは、愛欲を描いた罪により地獄に落されていた紫式部を、篁が閻魔大王に掛け合って救ったという縁によるものだと言う。』
『 嵯峨天皇が、「無悪善」という落書を読み解けと命じたが、篁はなかなか応じなかった。天皇がさらに強く求めると、「悪さが無くば善けん」(悪い嵯峨天皇が無ければ善いのに)と読み解くと、天皇は、「読み解けたということはお前が書いたのであろう」と強く責めたと言う。』
『 上記の天皇の怒りに対して、「私はどんな文章でも読めるのです」と釈明すると、「それではこれを読んで見よ」と言って「子子子子子子子子子子子子」という文章を示した。篁は、「猫の子の子猫 獅子の子の子獅子」と読み解いて、大事に至らなかったと言う。』

☆ 小野篁には、異母妹との壮絶な悲恋も伝えられているようだ。
人間社会だけでは納まらない篁と、異母妹との熱愛という人間の業を併せ持った篁・・・、もっともっと知りたいことの多い人物である。

     ☆   ☆   ☆